我が家の自閉っ子のマリオ(現在は青年ですが)の成長と、自閉独特の面白?話をお送りします。現在、 管理人がマリオの恩師と一緒に「ハッピー・クローバー」という障がい児・者を応援する会を作りました。障がい児・者の余暇を広げるためにいろいろな事にチャレンジしていきたいと思ってます。先々はマリオも手伝ってくれるといいな~

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「普通クラスとの交流」…これは、特殊クラスに通う自閉症児の親なら、おそらく多くの
人が抱いたと思います。実際に私自身もそのことを思っていました。
詳しくは、過去の記事:【葛藤】
http://calin.blog22.fc2.com/blog-entry-37.html

またToshi さんのブログ「教育の窓・ある退職校長の想い」の中の「人権教育(3)交流
教育」という記事にトラックバックします。
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/358490.html
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/345294.html

そんな、障害児と健常児との交流について、あらためて感じたことを今回まとめてみま
した。

続きは、こちら↓
■■■ 障害児をもつ親の気持ち

普通クラスの子との交流が欲しい
…どんな交流か?という具体的なものは描けてなかったのですが、ただ漠然とそんなこ
とを私は思っていました。マリオが小学校に上がるときの話です。

それは、以前も触れたのですが、
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他の子と同じこと、普通であることに、殊更固執する必要があるのだろうか?
普通でなくたって、世間並になれなくたって、幸せにはなれるのではないか?
他の子と比べて遅れててもいいじゃないですか
 …以前はできなかったことが、できたということを喜んであげよう

    そんな良いところ、好きなことを、見つけてあげる事
    そしてどんどんと伸ばしてあげる事の方が重要なんじゃないでしょうか?
    そして、何よりも、
    親と子の心のつながりがしっかり結ばれてる事が大切なのではないでしょうか?
====================================================================


こんな「普通ということへの呪縛」への戒めという思いを抱きつつ、一方では下のよう
「隔離される不安」というものを根強く抱いていました。

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「特殊クラス」という特殊な場所に、厄介者を追いやってるみたいで。。。
ちょうど、みかん箱の中の傷んだみかんは、別にしてどけないと、他のまっとうなみかん
も傷んじゃうから、だから箱から選別して別の袋に詰め替えちゃう、
 …そんな、世の中から「隔離」しちゃうような感じが、とてもイヤで、

そんなところにマリオをおいちゃうことが、どうにも許せなくて。。。
====================================================================


こんな気持ちが入り混じった中で、私としては、自然体で障害児と健常児が触れ合える、
そのような環境の学校を探していたように思います。

そんな中、小学校就学時の見学したA小学校は、普通クラスの子が休み時間になると
「K先生~」と言いながら遊びに来るようなクラスでした。そして、K先生のまわりに、
自閉症の子も普通クラスの子も自然にあつまり、穏やかに遊ぶ、そんなクラスだったの
です。

 …それが、遠いけれどマリオをA小学校に入れよう!と決めた一番の理由でした。


だけど、A先生がマリオが入学するときに入れ替わりのように転任して、あらたにKW
先生が着任すると、様相が一変しました。(過去の記事を参照)
【ダメな先生】
http://calin.blog22.fc2.com/blog-entry-36.html

そんなある日のことの出来事を、かりんがメモしていました。

○月×日
昼休み、大勢の4年生が遊びに来た。そしてボールプールのボールを投げて遊び始めた。
2,3人が来て遊んでる分にはまだいいが、もう教室から溢れんばかりの子供たちが大騒
ぎでボールを投げだした。

かなり危険な状態なのに、KW先生は全く無視でクラスの子の面倒も見ないで、自分の仕
事をしていた。4年生は大騒ぎの興奮状態!うちらのクラスの子は端っこで固まってる。
もうこれ以上は危ない!と私が思った時、たまたま他の先生が気が付き、「こらーっ!お
前らここで何やってるんだぁー!」と叱ってくれて、子供たちは廊下に・・・

そして、知らん顔してるKW先生に
「どうして止めてくれなかったのですか?」と言いました。

するとKW先生は
「マリオ君のお母さんが、普通学級の子たちも一緒に遊ぶといいといったので」と言う。

たしかにそんな様な事は言いました。
しかしこれは違うだろ!子供たちは勝手に遊んでるだけだし、うちらのクラスの子は怖く
て固まっている。


http://calin.blog22.fc2.com/blog-entry-38.html

同じクラス、同じ子ども達…なのに、ほんの数ヶ月しか違いがないのに、ここまで違いが
出てきてしまったのです。

実は、交流といっても、ただ顔を合わせる機会をもうけるだけじゃ、ダメなんですね。
けっして無理強いという名の指導をするのでなく、かといって放置するでなく、自然な
形でそっと肩を後押しするような、そんな「導き」がないとうまくいかないのだと思う。

トラバ先のToshiさんがやってこられたような、そんな自然なふれあいは、まさに理想的
なものに感じます。
 ⇒http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/345294.html

もうひとつ、上述のK先生のように、最初のとっかかりとして子供達が先生を好きにな
ることから始まる
面があるのではと思う。そして、その先生がいる特殊クラスが好きに
なって、特殊クラスにいる子どもも好きになるということが多くあるように思う。特に
小学生の場合、先生が媒介となる部分がとても大きいのですよね。

ついでに言うなら、実はうちの場合はいつもこれなんです。カリンが周りの子ども達と
まず仲良くなり、そしてマリオ共々馴染みになるという感じです。


■■■ 相手にかける負担

でも、一緒に共有する時間を増やす・空いている時間(休み時間)を使う、という程度
ならさほど問題にならないのですが、これに「負担」-「迷惑」といった要素が加わる
と途端に難しい局面になってくるようです。

障害児は、健常児なら当たり前にできることが、できない。自閉症児の場合は、当たり
前な言葉が伝わらない事が多い。ましてや気持ちが伝えることは、ホントに難しい。

だから、こちらの意図・やって欲しいことが自閉症児に伝えるには手間がかかる。感覚
過敏やこだわりから、色々と気をつかわなきゃいけない事も多い。逆に自閉症児の意図
・やりたいことを汲み取りきれない事も多く、誤解してしまいがちやってはいけない
とされている事を何度もやってしまうから、警戒され倦厭
されてしまう。

手間がかかるという負担感、訳が分からないから何か危害を加えられるかもという恐れ、
それらのマイナスに作用する力が大きくなると、知らずと気持ちが逆に働きはじめるの
は致し方ない話だとも思う。

昨年末に放映されたTVドラマ「1リットルの涙」。不幸にして不治の病におかされて、
まだ15歳なのに、日に日に身体能力や話すことすら衰えていく、そんな実話の少女を
もとにしたお話でした。

その中に、何とか今までと同じようにクラスの中での生活を可能な限り送りたいという
主人公・亜也の思いに、親だけでなくクラスメートたちが応え、協力していくという話
がありました。出迎えに早朝校門でまち、階段を時間をかけて登り、亜也を助ける友達。

でも、真っ先に親達が苦情をとなえる。「授業に支障をきたしている」「まわりに迷惑
をかけてまでもなお、なぜ一緒にやるのか?」


結局は、負担に耐え切れなくなった子ども達自身が、引導をわたす形になる。

フィクションなんですが実話を元にしているだけに、激しく身につまされました。

実は、「光とともに」というドラマ(これも実話を基にしてますが)の中でも、似た様
な話があります。学校が進める障害児と健常児が一緒に活動すること・勉強することに
対して、健常児の親から疑問が出てきました。「障害児の親からすれば、そうしたいの
は分かるが、はたして学校あげてまでもする必要があるのか?」「授業を進めることの
方が大事では?」

個人的には、そこまで他の子どもや親御さんにに負担をかけてまでもして、進めたい、
という気持ちにはなれないです。やはり申し訳ないという気持ちが先にたちます。
だけど、いやだからこそ、担任の先生だけは味方でいて欲しいと思う。
ある障害児の親が、担任への連絡帳に「見捨てないで欲しい」と書いてきたという話を
聞いたけど、その気持ちは痛いくらいにわかるのです。

交流教育って、何のためにするのか?

もし、障害児のためにするものだけなら、障害児の親としては、
「許される範囲内でお願いします」という以上のことはいえませんです。

だけど、交流教室って、本当にそれだけのためなのでしょう…か?

■■■ 障害児へのまなざし

先日のNANAさんのコメントに「社会的弱者」ってどうも釈然としないというものが
ありました。確かに、言葉は適切じゃなかったかもしれません。月山の山中鹿之助じゃ
ありませんが七難八苦が人を強くするという意味では、障害者=ハンデを背負った人は
逆に「強い人」が多い
とも言えますね。

ただ、普通の人にはできて当たり前のことができないという時点で、競争という視点で
いえば、劣っているということになると思う。障害者の中にはその逆境をバネにできる
ような強い人が少なからずいますが、全員が全員そういうわけではありません。生まれ
つき困難を抱えている・劣っているということは、現状では社会の中で弱い(≒不利な)
立場
になります。

しかしながら、ここで誤解しちゃいけないのは、ある特定の部分の能力で劣っていても、
「人として劣っている」というわけじゃ決してないということです。

私は、「普通」「当たり前」のことができない、だけど活き活きと生きて、その「生」
の中に個性と才能と成長を感じられるマリオから、「普通」という言葉の曖昧さ・無意
味さを教えられました。普通より劣っていてもいい、当たり前の事ができなくてもいい。
マリオ自身が、活き活きと生きていることが、まずは何よりも大切なんです。

単純な社会の中の「競争」という軸では劣っている人…負け組となるのかもしれないが、
実はそれはあまり大したことじゃない。

だから、社会的弱者といっても、障害児に、マリオに「あわれみのまなざし」を向けて
欲しくない


韓国の映画「マラソン」の中で、障害児は迷惑かけるのだから施設の中にいれておけ!
と毒づいたOLに対して、母親が「この子は、あんたなんかがひっくり返ってもできな
い力があるんだ」
と怒鳴り返しましたが、この気持ちはすごく良くわかる。
実際に、私自身も本当にそう思っている。

自分とは違ういろんな人がいて、中には自分よりも(ある面での)能力が劣る人がいて、
だけど、その人は自分より劣っている人ではない。自分と同じ人間なんだということ
それだけは、分かって欲しい。感じて欲しい。

■■■ 損得勘定から徳の積み上げへ

正直いって、人間って打算的な一面があると思う。

自分に、自分達にかかる、負荷・負担・マイナス面と天秤にかけてものごとを判断する。
これは当然ですよね。私だってそうです。「そこまではやってられないよ」となります。

だから、その天秤の反対側に乗るものが問題になってくる。自分達が得られる、報酬・
対価・プラス面とはなにか。

健常児が障害児と交流することで得られるものはなにか?

…それが、無い。
だから、「授業に支障が大きいから」とか、その負担・負荷にばかり目がいっちゃう。


ところが、よくよく思い起こしてみると、こういった打算では計りきれない「思い」と
いうものが人間には良くあるんですよね。
…「やらずにはいられない」「見逃せない」:そう感じるときってありませんか?

こういう思いは、人によっては「偽善」ととるのかもしれないが、私はもっと「衝動的」
で「純粋な気持ち」である場合が多いのではと思う。というのは、それは自分の思う
「あるべき姿」に照らし合わせてでてくる思いなんだから。

できない人、困っている人がいたら、すっと手を差し伸べる。

さっき、「あわれみ」は要らないといいました。困っている人を助ける気持ちのひとつ
にあわれみという心があるのは確かです。私はそんな気持ちそのものを否定するつもり
はありません。でも、やっぱり自閉症児にむける気持ちに、あわれみは欲しくないのです。

私は、困ってる人を助けるのはあわれみだけじゃないと思う。情けは人のためならず、
とはいいますが、困っている誰かを手助けしてあげると、その人の笑顔や、感謝の気持
ちや、そういった色々なの相手の発する何かで、自分自身が豊かな気持ちで満たされる
ことってありませんか?

誰かの役に立つ事って、自分も嬉しいのですよ。仮に自己満足かもしんないけど。
そんな相手への「おもいやりの心」って、あわれみとは別のものなんですよ。
そして、思いやりって、相手に求めるものではなく、相手に与えるものなんです。
結果として、皆が思いやりを与えあえば、皆が幸せになります。

できない人に、自然と自分の手を差し伸べてあげられる、そんな、他人をおもいやる心。
他人に勝つだけでなく、他人の役に立つことをしていきたいという、そんな生き方。


そういったことを、私は障害児を通じて、教えられ、感じさせられました。
自分にとっての当たり前が他人には当たり前でないということが、ひとへのやさしさの
素となりました。

一言でいってしまえば、「徳」の教育。「志」の教育。
それが、障害児との交流をつうじて、健常児に学んで欲しいことなのではないかと思う。
もし障害児がいなかったら、ほかの事ででも良いんです。人を思いやり、「徳」を高く
する教育をさえしていってもらえたら。

まあ自閉症児の親としては、元来誤解をされやすい自閉症児なんですから、小さな子供
の頃から自閉症児に馴れ親しみ、理解してもらうようにしていって欲しいのですけどね。

■■■ 障害者が自然でいられる社会

どこまで本当のことか自信はありませんが、ある人が言っていました。欧州の人が日本に
来ると驚くのだそうです。日本には障害をもった人が少ないのだね!っと。でも、それは
街の中に障害者がいないだけ…街の中に障害者が出ていけないだけ。対して欧州では、
もっと普通に、自然に、街中に障害者が出ていっているといいます。

普通クラスの子との交流は、冒頭にも書いたように、多くの自閉症児の親の願いだと思う。
それは、「普通ということへの呪縛」という要素も多分にあることは否定しない。
だけど、それだけではけしてないと思う。

「障害」をもっていても、普通に、世の中に、街の中に出て行くことができる
そんな、社会になって欲しい、という切実な願いがあるんです。

障害が障害で無くなる社会、
いや、障害者が障害をことさらに意識しなくても良い社会になって欲しい、
そんな社会にしていかなくてはいけない、心からそう思います。
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コメント
この記事へのコメント
シンプルに、偏見は知らないということだと思います。

交流で障害をもった人と接すれば、知るこ
とができる。

自閉の子供とのコミュニケーションは勝手が違うかもしれないけど、何かしら学んでいると思いますよ。

見聞をひろめることは得ですよね。
2006/01/19(木) 13:03 | URL | やまずみ #rcysf8oI[ 編集]
ありがいHideki様。
障害者がそれぞれ違うのと同様に、健常者もそれぞれです。
みんなそれぞれなのに…?
私は、損得で考えると…?触れ合う事で得をするのは?健常の側ではないか?と考えていますが…。『授業の進行などを気にかけての保護者の発言』は?実は私は、『あちらから見る』ことができなくて…、誰よりも自分が困っていると感じることが多くあります。

>健常児が障害児と交流することで得られるものはなにか?
私もこれを具体的に言葉にすることが難しくて…。もうずいぶん長い事考え中です。
最近別件でtoshi先生のHPを読んでいると、ヒントかな?と思える内容の物がありました。(勝手にリンクします)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~syougakusyoninsya/gakkyuu7.htm

運良く多くの障害者と関わらせていただき、障害者と健常者は何も違わない。と日々感じながら暮らしています。
なぜ?出会いがコウまで少ないのか?
なぜ?両者とも違うとおっしゃるのか?
を含めて…、なんだか右往左往しております。。。


私の中では大きな発見をしたつもりでいましたが、本当は?私が誰よりも見えていないのか?と、この頃思います。
お恥ずかしい限りです。
2006/01/19(木) 14:39 | URL | NANA #yJmgU7PM[ 編集]
目に見える果実
偏見を解決するには、まず知ることから、…おっしゃるとおりですね。ただ、中途半端に知ることで誤解すると、かえって余計な偏見を生む可能性すらあるのが悩ましいところ。

かといって、そこまで深く知ろう、とも思わない。「なぜ、そこまで知る必要があるの?」という問いへの解答がみつからない人は、積極的に関わり、知ろうとしないんですよね

> 自閉の子供とのコミュニケーションは勝手が違うかもしれないけど、何かしら学んでいると思いますよ。

そうなんですよ

ただ、「何かしら」学ぶだろうから、ということだけでは「負荷」をはねかえすだけの動機は生まないのではないでしょうか?

何を学べるのか?を、掘り下げる必要があるなと思ったのは、そんなわけなんです。

何を学べるか?は、実際に学んだ人が何を学んだか?ということを整理したほうが断然はやいですよね。

やまずみさんは、どんなことが学べると思いますか?
2006/01/20(金) 01:52 | URL | Hideki > やまずみ さん #JalddpaA[ 編集]
おなじこと、ちがうこと
> 障害者と健常者は何も違わない。

うんとね、こういうと「じゃあ、健常児も障害児も一緒に扱っていいことになる。だけど、実際はそれではすまないはず」という反論がかえってくる。

障害児は、やっぱり健常児と同じじゃないのですよ。健常児が簡単にできることができない。だから「特別な配慮」が必要にある。

でも、障害児も健常児も「同じ子ども」なんですよ。

このあたりをごっちゃにしちゃうと分からなくなると思う。

能力の優劣・差異はまぎれもなくあります。
でも、人格の優劣・差異はないんですよ。

> なぜ?出会いがコウまで少ないのか?

「血」や「家」を重んずるがゆえ、異質なものを隠そうとする、そんなとてもイヤな感覚が、未だに根をはってる気がしてます。

とくに、他人と違うこと>白い目・いじめという図式があるから尚更「普通であるように」見せようとする。

まわりも、あえて近寄ろうとしない。

「隔離」という感覚、一番のネックになってるように思えるのです
2006/01/20(金) 02:10 | URL | Hideki > NANA さん #JalddpaA[ 編集]
私の大前提は、信じれば叶うです。
意識して考えています。

人は誰でも等しくトップランナです。
マリオくんはマリオくんというジャ
ンルの第一人者です。

だから、かけがいがないのです。

息子と接するうちにこんなことを考えるようになりました。

他者を認める経験ができた人は幸せ
です。交流で”どうしたらコミュニ
ケーションできる?”と疑問が生まれたら、それは他者を認める第一歩だと思います。

小学校の時、同級生だったFくん、君におせっかいした経験が、私の第一歩でした。

2006/01/20(金) 02:36 | URL | やまずみ #rcysf8oI[ 編集]
できないことはそれぞれ違うのに?
おっしゃる事がわからない。認められないのではないのですよ。

>障害児は、やっぱり健常児と同じじゃないのですよ。
それぞれ特有の個性は持っています。それが障害から来る物であったり、もって生まれた性格から来る物であったり、経験によって蓄積された物であったり…。様々です。
健常者と障害者の違いは?最初の障害から来る物を持っているか?いないか?だけでしょう?

>健常児が簡単にできることができない。
健常者だってそれぞれに…。みんなができる事ができないという一面を持っているものですよね?
例えば…?『頼まれたら断れない人』とか?『頭にきたら黙っていられない人』とか?『逆に頭に来てるからこそ黙るしかできない人』とか?『誰かにコウと言われたら、まずYESというしかできない人』とか?逆とか?
私のように?『一たびコウと思ったらまず突っ走る事から入る。しかできない人』とか?(まあ今ちょっとこれやばいぞ!と思ってるんですが)
いろいろですよね?そして、周囲の人は?付き合っていくことによって個人のそういった特徴を知って行き…自分たちでお好みの輪を作るようになって行く。
【特別な配慮】
例えば、『あの人は今ちょっと弱っているから頼み事をすると?断れなくてまいってしまうな?』とか?『あの人は今ちょっと頭にきてるから拍車をかけないようにしよう』とか?
『また突っ走り始めたぞ?しばらくほって置くしかないだろう?』とか???
個人を良く知っている人同士は?お互いにこれをやり合っている。やはり付き合いやすいわけですよ。
で、健常ばっかりの社会では?これを【社会性】と呼んでいる訳ですよね?
そしてそこには愛情・気持ちが入っている物なのでは?

障害者への『特別な配慮』には?どうでしょう?同じ障害でも、人によってや場面場面で必要な配慮の仕方は様々では?
『適切な配慮』が何であるか?を見極めるには?やはり愛情・気持ちが必要では?

>能力の優劣・差異はまぎれもなくあります。
これも健常者同士にもありますよね?

『特別な配慮』ができるようになるという事は?『社会性』を学ぶ。良い機会ではないでしょうか?
社会性を身につけるという事は?自分たちが相互に暮らしやすくなるという事なのでは?
そして、愛情・気持ちのこもった社会を作っていく事につながるのではないでしょうか?

>このあたりをごっちゃにしちゃうと分からなくなると思う。
確かにおっしゃる通りと思います。v-154かなりごっちゃでしょう?(冷汗:





2006/01/20(金) 05:31 | URL | NANA #yJmgU7PM[ 編集]
> だから、かけがいがないのです。

おっしゃるとおりですね。
マリオの代わりになる人間なんていません。

同じ学校の同じ学年の子どもという存在から友達となり、相手と「名前」で呼び合う関係になっていくと、かけがいの無い存在に少しづつ近づいていくことになる。

子ども同士の出会いから、そんな関係に発展していくことを信じ、願いたいですね。


ただ、問題はまわりなんだよなぁ

2006/01/21(土) 00:17 | URL | Hideki > やまずみさん #JalddpaA[ 編集]
思いやる心
勝ち組・負け組の話じゃないですが、依然として「競争社会」の意識は、根強くあると思う。

また、「個」としての生き方・価値観・幸せを尊重し、主張していくことが目立つようになりました。

それはそれで大切なことなんですが、反面で「自己主張」ばかりの「自己中発想」も多くなってきた感がします。

自分、あるいは自分に近い仲間(小集団)だけ良ければ良い。他人…その他の多くの人たちへの迷惑を省みない、そんなジコチュー行為を最近感じます。

広く相手を思いやる心、人を思いやる心を、今まで以上に身につけるような教育が必要なんじゃないかと思う。

困っている人がいたら、助ける
自分よりつらそうな人がいたら、席を譲る

だけど、それは憐み(Charity)の気持ちとはちょっと違う。

誰かを手助けする、誰かの役に立つ、
そんな「お役立ち」の精神が重要なんです。


実は、これが今のビジネスマンに最も重要な事柄だと思うんですよ。

誰かの役に立つことが、はたらくことの最も大元の部分です。

結局は、「徳のある人」「夢のある人」に人はついていくわけですからね
2006/01/21(土) 00:45 | URL | Hideki > NANAさん #JalddpaA[ 編集]
 わたしの記事をたくさんTBしていただいて、感謝しています。本当に有難うございます。
 交流って難しい。自然体でやれば難しくなんかないと思うのですが、教育の場においては、この自然体が難しいのです。『~を教えなければいけない。』という意識が働くし、形だけという人がいますから、これも、空しさだけが残ってしまう。こういう人は、問題があっても何がいけないのか分からないでしょうね。
 交流は確かに必要です。交流しない
2006/01/21(土) 09:08 | URL | toshi #-[ 編集]
 続きです。
 交流は確かに必要です。交流しないと、知識も理解も持てないし、他を思いやる心も育ちません。だけれど、交流していればいいというものでもないのです。Hidekiさんのおっしゃる《自然な形でそっと肩を後押しするような、そんな「導き」》が絶対必要です。そうして、自然体の気持ちのよい交流が始まるのだと思います。
 失敗もあります。でも、前向きの心、『子どもと共に伸びよう』とする心があれば、私は、それでいいと思います。つまり、試行錯誤はあっていいということです。
 先生が子どもに好かれるという要素を持っていること、これも大切です。Hidekiさんのおっしゃる通りです。これ、私、いずれ記事にしようと思っています。
 
 ああ。ごめんなさい。まどろっこしい。わたし、ここではこれくらいにして、今日、このHidekiさんの記事についての記事をまとめてみます。
 それでは。とりあえず、これにて、失礼します。
2006/01/21(土) 09:23 | URL | toshi #-[ 編集]
うまくまとまらなくて
じつは、障害児との交流という点について、

○そのために必要なこと
 →障害児本人にとって無理がないか
 (実はこれが一番気がかりな点)
 →教える側が自然に導けるか?
 (ご指摘のように、肩に力が入りがち)
 →健常児への負担・負荷の度合い

○何のための交流か
 (そこから子どもに何を身につけて欲しいか、学んで欲しいか)
 →障害児にとっての目的・ねらい目
 →健常児にとっての目的・ねらい目

それらを、まわりの人たち(親など)が
どこまで理解してくれるか? 

それらについて、いろいろ思うところがあって記事にした次第です。

ぶっちゃけて言うと、

健常児の親が、そして学校の先生が、障害児との交流教育の意義を、子ども達がそこから学べるものを、どこまで感じていただけるか?によって、それへの取組みが変わってくるように思うのです。

もちろん、その障害の種類や程度によるものかもしれませんが。。。

> 記事についての記事をまとめてみます。

はい、よろしくおねがいします。楽しみにしてます
2006/01/21(土) 16:34 | URL | Hideki > Toshi さん #JalddpaA[ 編集]
損得勘定だけで教育しているのも、立派な発達障害だとおもいます。だから交流は必要。
いろんな経験が、子供の価値観を深めたり、多様性を認めることにつながります。
理解できない子供もいるし、否定したい気持ちも尊重するべきです。
私は障害に理解のない人を認めることによって、なにがしたいかハッキリしてきました。
どうしてほしいかより、どうしたいかと考えた方が楽だし、行動につながります。

正しいこと(良いこと、思いやり)と楽しい気持ちがコミットしないと無理が生じます。
教師が楽しい流れをつくることもできると思いますが、その素養をどの先生にも求めるというのは酷な話です。
そうすると私が実践するのが理にかなっている。地域や、保育園の役、などに参加していくことで解決したことも多いです。
まずは前向きに、私から行動する。そうすると前向きという暗黙のルールがリレーされる。あくまでも私の場合です。
2006/01/21(土) 18:26 | URL | やまずみ #rcysf8oI[ 編集]
思いやりは求めるものではなく与えるもの
以前も書きましたが、私は基本的には気遣い・思いやりは求めるものではなく与えるものだと思っています。

だけど、求める(=目標にすえる)ことなくしては、叶えられないとも思っています。

> その素養をどの先生にも求めるというのは酷な話です。

確かに、どんな人にも最高の理想像を求めるのは現実的ではないかもしれません。

でも、「理想像」があるからこそ、そこを目指すという行為が生まれると思うのですよ。

理解が無い人を認めないというわけじゃないんです。それを認めてもなお、理解をしてもらうような働きかけと工夫をしようというのですよ。

相手に考えていること・思いを伝えあうことで、一段と深まっていくのだと思う。

損得勘定だけで教育している人が、「教育が損得勘定だけでない」って気づく、そんな「気づき」のきっかけになるのが、主張のぶつかりあい・価値観のぶつかりあいだと思うのです。
2006/01/21(土) 19:09 | URL | Hideki > やまずみさん #JalddpaA[ 編集]
初めまして*
履歴から遊びにこさせて頂きました*
ずっと読んでいたのですが、本当に難しい話しです。
我が家にも小学1年の軽度の自閉症の息子がいますが、入学の時!悩みました!
普通級か支援級か・・・。
悩んで悩んで普通級との交流もしてくれる!
ということで支援級で息子を伸ばして行こう!と決めました。
そして、人と接する機会を多くする為に学童にも入所することにしました。
現実の普通級との交流なんてほとんど無理!
先生にそんな余裕がないのです。
普通級に入っていたら息子は、ストレスを溜め込んでいたでしょう。
今思えば、支援級に入って良かったと思います。支援級の先生にも恵まれたのかもしれませんが。
長くなりました!また遊びにこさせてもらいますので、よろしく*

2006/01/21(土) 22:14 | URL | りか #-[ 編集]
うちも同じですね
りかさん、はじめまして。どうもコメントありがとうです。
就学のときって、いろいろと悩みますよね。うちも、結局特殊クラスでいきました。そして、それでよかったと今も思っています。

はいってからも、いろ~んな事がありましたが、まあ、それは過去の記事に何回も書きましたので、またお時間があるときにでも、ご参考になればと思います。

また、今回リンク先のToshi さんが交流という点でとても参考になる記事をあげておられます。一度ご覧になってみると良いかと思います。(私もあらためて、もういちどあげました)

なんか好き勝手に書き散らかしているブログですが、それよろしければお気楽にまたいらしてください。これからも、よろしくおねがいしますです
2006/01/22(日) 02:41 | URL | Hideki > りかさん #JalddpaA[ 編集]
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 14,17の両日、交流教育について記事にしたところ、Hidekiさんが、本記事にかかわるかたちで、ご自身のブログに記事を掲載された。大変膨大な中身で、わたしはそれにコメントさせていただいたが、とても言いきれない思いがして、本日はここにコメントさせていただく感じで
2006/01/22(日) 08:43:41 | 教育の窓・ある退職校長の想い
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